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いろはトンネルをめぐる旅 その2

路線はもうしばらく先に延びる。終着駅蛸島まで切り通しはあるがもうトンネルはない。集落にある正院駅を過ぎ、森を抜け、緩やかな左カーブの先に見えてくるのが終点蛸島駅である。

久しぶりの蛸島駅には、おそらく個人商店であろう売店が整備され、少し雰囲気が変わっていた。
ホームでは穴水駅からの運転士が乗客と談笑している。
運転士の「まだまだあきらめませんよ!」の声が聞こえた。廃止は決定事項であり、もう覆りがたい。皆、分かっているのだろうが「がんばって下さいよ!」の声が飛ぶ。

蛸島駅を覆うこの桜並木に次の花がつく頃、この駅にはもう列車はやって来ない。

折り返し列車で珠洲駅に戻ると、この後2時間ばかり待ち時間が出来る。丁度昼時であるので、昼食場所を探しがてら、珠洲の街をぶらぶらすることにする。
珠洲駅は珠洲市のややはずれに位置し、周囲はあまり店がない。中心地区へは前述のとおり飯田駅が近いが、やはり前述のとおり山中の小駅の風情である。時刻表路線図などでは、珠洲市の「代表駅」はというと、「能登飯田」というバス停となっている。
このバス停は中心街にある商店街の中にあり、ちょっとした駅舎のように整備されている。
この付近で食堂に入る。ここまで来てカレーライスである。この辺り、外食ということが一般的ではないのか、中心街にはあまりそういった店はない、ばかりか日曜で閉まっている店も多い。いきおいやることがない。
店を出ると近くの本屋に入って文庫本を一冊買い、若山川の河口に腰を下ろし、波音を聞きつつしばし読書。やることはないが、こういう時間は結構好きである。
終点蛸島駅到着。
珠洲市代表駅?「能登飯田バス停」。
列車の時間が近づいたので駅に戻り、これから引き返す。朝の穴水での待ち合い時に立てた計画では、この後矢波駅、九十九湾小木駅、そして七尾線の能登中島駅と降りる予定だ。というより一年で最も日が短い季節であることも手伝って、日照時間内に下車するのはこれが限界であった。なにしろ国鉄時代より列車本数は少ない。

珠洲駅から乗車した列車であるが、やはりそれなりに混んでおり、乗車率はほぼ100%である。
フリー切符をもった観光客もちらほら見かけるし、開業1年を過ぎた能登空港から東京へ帰る団体もいる。一緒に最後尾に陣取ったおばちゃんは「これから九十九湾の遊覧船に乗るの。」とわくわく顔であるが、どこで降りたらよいのかは連れまかせのようで、知らないらしい。「九十九湾小木って駅があるから」と教えてあげるが、分かっているのかどうだか。
その九十九湾小木駅に到着すると、ようやく仲間のおばちゃん二人がこの人を呼びにきた。最後尾から離れていく駅を眺めていると、ホームにあのおばちゃんたちがいた。無事降りたようだ。人事ながら一安心。あの人もフリー切符を持っていたが、フリー切符ってのはどうも危機感がなくなるものだ。まぁしかし気持ちまでフリーになるのが隠れた効用であろう。決して非難しているのではない。自分も同様なのだから。

車窓に海をちらちらと写しつつ、列車は矢波駅に到着。
海が見える区間は多いが、矢波〜波並間が最も眺望がよい。先に見えるホームが矢波駅。
海沿いの小駅、矢波に到着。降りたのは自分ひとり。次の列車まで待合室でほんやり過ごす。
矢波駅は沿線で最も海への眺望のよい駅である。低い土手に位置し、国道越しに海と向かいあう。木造の待合室に腰掛けると前一面に外海に口を開けた七尾湾が広がる。
ふと見ると駅ノートが設置されていた。以前訪れた際にはなかったものだ。
「駅入口の階段を上りきったところで、目の前に広がる海に息を呑んだ」などという書き込みがあった。
この素晴らしい立地の駅も春には「駅」ではなくなる。返す返すも残念である。ここで40分ほど先ほどの本を読んではやめ、ぼ〜っと過ごす。これもまた贅沢な時間である。

やってきた下り列車に乗り、今度は自分が九十九湾小木駅で下車する。
この駅では20分程度の時間がある。駅から徒歩1分程度の遊覧船乗り場に行ってみると、もう閉まっていて閑散としていた。ふと見ると人影が…。さっきのおばちゃん三人組であった。下車して、遊覧船で一周して、戻ってくる頃に次の列車が来る。丁度あわせたわけではない、それだけ本数が減っているのだ。冬の陽射しはもう随分と傾き、次第に薄暗くなってきた。

おばちゃんたちとともに自分も次の上り列車に乗り、失敗を重ねた穴水付近のトンネルに再挑戦。そして廃止される甲駅から移された郵便車が佇む能登中島駅へと向かう。
乗った列車はかなり混んでおり、立ち客が出ている。日曜だというのにどういうわけか学生も多く、期末テストが近いのであろう、皆熱心に参考書を読んでいる。観光客が眺める海も、彼らにとってはありふれた光景なのだ。学生は外を見ることはない。

「お母さん、トンネルになんか書いてある。“は”?」
私の前で「特等席」に陣取っていた子供が隣の母親に声を掛ける。

そう言えばこのいろはトンネルについて、自分以外に気に留めている声を聞いたのは、今日ここに来てようやく初めてだ。

「今度は“ろ”やって。」「あのトンネルも書いてあるかなぁ?あ、“い”やって。」

どうも地元の子供らしいが、このいろはトンネルもあまり知られていないのか。でも今のうち気付いてよかったね、ボク、もうすぐこうしてこのトンネルを見ることもできなくなるんだ、ここのトンネルには「いろは」の仮名がふってあるんだよ。

「お母さん、“はろい”って何や?」「…?、さぁ…?」

ズル。

そうだった、上り列車だった…。
(※この母子の会話、ほぼ忠実に再現した"実話"であり、誓って"ネタ"ではありません(笑))
日も傾き始めた九十九湾小木駅に到着。
余剰車となるのか、鵜川駅にあった留置車両。
何度も繰り返すが、能登線は平成17年3月末をもって廃止される。
60キロを越え、1市3町にまたがるこの能登線、さらに袋小路である半島部という事情、積雪や国道から離れる一部区間の道路事情、両隣県の福井県富山県の鉄道への取り組み姿勢なども鑑み、なんとかならなかったのか?という疑問はやはり残る。

のと鉄道は昭和63年に、この能登線をJRから引き継いで発足。当初はそれなりに営業も好調だったが、その後平成3年、JR七尾線和倉温泉電化を機に、和倉温泉〜輪島間の七尾線末端部も引き受け。ここは能登線と異なり国鉄再建法に基づく移管ではないため国の補助が受けられず、上下分離方式となった。
七尾線の運行まで抱えることに無理があったのか、元々車社会の過疎地域という根本的な問題が顕在化したためか、利用者数も減少し、この頃から経営は苦しいものになっていった。

その背景のひとつとして、のと鉄道沿線とはかなり離れた穴水町、輪島市、能登町境界付近の地区に能登空港の開業準備が進んだことが挙げられる。能登空港は平成15年に開業するが、空港そのものよりも空港整備にも付随する事業として、開港前から高規格な周辺道路が穴水から先の輪島方面、珠洲方面へ順次整備され、道路事情が次第に改善されていったことがのと鉄道にはダメージとなったのではと考えられる。そして空港を軸とした中距離のバス路線も充実された。
結局平成13年に沿線最大の観光地輪島市を擁しながらも七尾線穴水〜輪島間が廃止。そして今回さらに交通アクセスの悪い珠洲方面への能登線が廃止となる。

もし今日の乗車率が日常であったならば、この半端な時節の休日の乗車率が日常であったならば…。
少子化・人口減少による利用者減が根本的な問題としても、高齢化率も高いこの地域、また圏域面積に対して学校の少ない地域でもあり、何かプラスアルファの北陸本線沿線からの集客策や(能登線廃止に際し、SLを運行させて集客しようという民間会社もあったようだが)、鉄道から枠も広げたような経営策はなかったものか。

ローカル線とは言え生活線を引き受けることは、ただの延命措置であってはならないと思う。
というのも能登線廃止以降、残る区間は和倉温泉〜穴水間。輪島、珠洲へ向かう両末端区間よりも流動が多いとは言え、のと鉄道の未来は決して明るいとは思えないからである。奥能登の玄関口穴水までの鉄路は何としても確保していてもらいたいものである。


乗車列車は軒並み混雑していた。
廃止となる甲駅から能登中島駅に「避難」した郵便車。
穴水駅で乗換えて、能登中島駅に到達する頃にはかなり薄暗くなっていた。
この次はもう一度、雪が降る頃に来てみようかな、と思う。この日は冬ながら、むしろ暖かい日で、車窓には青い海が広がっていた。列車からの車窓としてはもう見られない春の景色を見たような一日だった。それはそれでよかったのだが、今度は本当の冬を見てみよう。トンネルに気を奪われ、そう言えばよく景色を見ていなかったし…。(4頁に掲載)

車窓に広がる海、は実際はそれほど珍しいものではないのかもしれない。でももうこの景色が見られるのはあとわずかである。もしこの拙い文章を見て、一度訪れてみようと考える人が一人でもいらっしゃったならば、恐悦至極である。そして、ついでに密かに佇むこのいろはトンネルを数えてみていただけたならば、尚のことである。


本編おわり
(次頁、全いろはトンネルを掲載)
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