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「能登」と読書と群馬三昧の巻 その1

自分にとって「旅」というもの、再三このコーナーで書いているとおり、実はあまり計画的ではありません。それは道中に限った話しではなく、実は「どこに行こうか」というところから無計画だったりします。「そういやあの辺り、しばらく行ってないな」、とそんなところから「んじゃ、行ってみようか」となることが多いわけです。あくまで自分の場合ですが。そしてこのときふと浮かんだのがこの辺り。出張以外では久々に、関東へ行ってみよう、ということで文庫本片手に出かけた、ある夏の日の記録です。


○急行「能登」で高崎へ

「男なら能登」。



この旅のしばらくのちに金沢へやってきた本所所長と現・北広島支所長が呪文のように唱えていた言葉である。
その時は、自分が合流する前に、この言葉でもう一人の同行者を焚きつけ、一人東京へ向かわせてしまったらしい。
この呪文、「男なら日本海の波濤が炸裂する能登半島の荒磯を一人旅するものだ」、という意味ではもちろんなく、ここでの「能登」とは東京と北陸を結ぶ夜行急行「能登」のこと。

北陸から東京へは、快適で早い飛行機や新幹線ではなく、寝台のある特急「北陸」でもなく、座席車のみの「能登」で、金を遣わず体を遣って行け、というスパルタンな煽り文句である。


さて、そんな呪文を耳にする前の、今回の旅のスタートはその急行「能登」。
確かに高速交通網が拡大している昨今、ハードな部類に入る移動手段なのかもしれないが、私用で関東圏へ訪れる際の御用達列車である。この列車でまずは高崎へ向かう。

この急行「能登」は、客車から電車へ、長野廻りから長岡廻り、福井延長、金沢打ち止めと紆余曲折はあるが、個人的には折に触れ、長らくお世話になっている列車である。

ちなみにその長野廻りの以前は現在と同じ長岡廻り、さらに遡れば東海道から米原廻りで、長きに渡り関東と北陸を結んでいる由緒正しき急行列車であり、そのルーツは東海道の伝統の夜行急行「銀河」との兄弟列車であった。細かな性格は変えつつも、大極的な使命は変わらずほぼ走り続けている稀有な列車である。
(昭和43年東海道線経由廃止、50年上越線経由で復活、その間の関東〜北陸間の夜行急行は信越線経由「越前」が走っていました。「越前」は昭和57年に「能登」に統合、改称。)

稀有な列車と言えば、全く同じルートを殆ど同じ時間帯に走る特急「北陸」があり、夜行列車・急行列車が完全に斜陽化している昨今において、これまた珍しい雁行列車となっている。ただし全車寝台(一部個室)の特急「北陸」と全車座席の急行「能登」と、一応の住み分けはある。

金沢という駅はやってくる夜行列車群にある特徴があり、大阪と札幌を結ぶ臨時「トワイライトエクスプレス」は別格として、大阪と青森を結ぶ特急「日本海」は2往復、大阪と新潟を結ぶ急行「きたぐに」は1往復であるが、JR発足初期の頃まではやはり同区間の特急「つるぎ」が1往復走っており、つまり各方面へのダブルトラックが形成されている、というか、いたのだ。(ただし「つるぎ」は金沢通過。)

2本の「日本海」、それから「北陸」「能登」はそれぞれJR東日本と西日本が1本ずつ担当している。ちなみに「つるぎ」「きたぐに」はともにJR西日本。現状のダブルトラック体制はJRの別会社受け持ちゆえに残っている側面もあるのだろう。とにかくなんにせよ、翌日早朝から動ける夜行列車に選択肢が多いのは、非常に有難いことである。

ただし反面、金沢駅の夜行列車群、うち「トワイライトエクスプレス」、それと「北陸」については個室寝台が整備されているものの、2本の「日本海」は1・4号のA寝台を除いて全開放型寝台車を使用しており、テコ入れが遅れていることは否めない。急行の「きたぐに」「能登」についてはそれぞれ583系、489系ボンネット車と、どちらも一世を風靡した特急型車両の「全国最後の定期運用」となっている列車である。

「日本海」「きたぐに」「能登」のノスタルジックなスタイルは魅力的だが、車両の経年限界と列車の命運が今のところ密接に絡んでいるのは不安材料である。

さて、この「能登」であるが、何度もお世話になってはいるが、正直言って「ゆっくりと座れた」記憶がほとんどない。やはりゆっくり座れない「きたぐに」と違って、大概始発駅から乗ることが多いため、自由席でも座席はまず確保できるのだが、「相席」となるのが常である。
というわけでこの旅も、かなり余裕を持って金沢駅入り。予想外に早く着き(徒歩だったので)、発車1時間前に着いてしまった。まぁしかしこれなら座席も安泰。入線してきた列車に一番乗りである。

…ところが発車時刻が迫ってもこの車両には誰も乗ってこない。夜行列車だというのに喫煙車を選んだからだろうか、他の車両についてはパラパラと乗っているようだが、結局この車両には自分以外誰もやってくることなく、定刻に金沢駅を発車した。
雁行して同じルートを辿る特急「北陸」(左)と急行「能登」(右)が並んで発車を待つ。金沢駅にて。
金沢駅発車直前の急行「能登」。前後の車両には客はちらほらいるものの、この車両には誰も来ない。
しかし常に混雑しているイメージのあった列車だったのに、このような乗車率とは思いもしなかった。やや半端な時期とは言え、学生などは夏休み期間なのだが。前回乗車時もそれなりに混んでいたと思ったが、喫煙車が敬遠された以上に、利用者が減っているのだろうか。

レディス・カー新設時などは、JR西日本金沢支社では「♪急行「能登」で東京へ、眠っている間に東京へ」という歌を用いたテレビCMを流していたものだが、あの頃鉄道関連に全く興味を持っていなかった自分でも知りえたような、あのような宣伝を打てる要素はなにかないものだろうか。

この列車の先行きの憂いはあるが、現金なことを言えばしかし、今現在の自分は気兼ねなく過ごせるのは有難い。津幡、石動、高岡と急行列車らしくこまめに停車していくにつれ、少しずつ客を拾ってく。

富山を発車すると車内放送が流れ、明朝熊谷まで放送は停止する旨が案内された。「お降りのお客様はお乗り過ごしのないよう…、」

…ということは「降車駅」で案内がないのは自分の降りる高崎だけか?

「能登」は長野経由の頃は深夜帯も小まめに停車していたにも関わらず、長岡経由となってからは直江津から高崎まで客扱いがなくなっている。高崎着は未明の4時5分。確かに放送を流すには早いが、たった一駅の空白を作ることもなかろうに。
無情にも放送は終わり、室内は減灯される。以降は本格的にミッドナイトエクスプレスと化す。

糸魚川を出た時点でのこの車両は乗車率25%、つまり丁度1シートおきに1人という状況となった。
次の最終「集客駅」直江津を出たら前のシートを回転させてボックスを作り、自分も寝ようか、そう思っていたところ、「案の定」直江津からは1人の客がこの車両に乗り込み、「案の定」自分の前の席に座った。

直江津発車後、この車両は1ボックスに1人というある意味理想的な乗車率となった。自分とその直江津からの最後の客を除いては。

乗車率25%+1…。

まったく、最初に乗ったんだから問答無用でさっさと「巣」をつくっておけばよかった。「混んだ能登」のイメージから、それが憚られていたのだ。やれやれ。

「混んだ能登」というのも一因であるが、この列車には実はもう一つ個人的なイメージがある。それは「眠れない列車」である。というより、個人的に「眠る」ということに関して、夜行列車全般が実は苦手である。

元来バリバリの夜型であることもあるが、昼の列車はそれなりに眠れるのに、夜行列車はからきしダメなのだ。自分ともう一人を除いて、見事に並ぶ1ボックス1人の乗客たちは皆気持ちよさそうに寝息をたてている。恨めしい気持ちもあるが、仮に自分もそうできたところでどれほど眠れるかというと、どうせ大して眠れはしまい、ということで持参した本を読む。そのうち眠くなるかもしれない。

列車は長岡で進行方向を変え、越後湯沢、水上で運転停車。水上と言えば既に群馬県。そうこうしているうちに下車駅高崎は迫ってきている。到着の車内放送もないので眠ることは完全に諦め、車窓の闇の向うに民家が増えてきた頃からもうデッキへ向かう。結局一睡も出来ないまま、定刻高崎に到着した。
タバコ、お茶、文庫本。深夜帯でアナウンスも流動もなくなった静かな車内で過ごす三点セット。
高崎駅に到着した「能登」。この後30分ばかり停車し、金沢から「追って」くる「北陸」到着直前にこの駅を出る。
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